「専門家コラム」カテゴリーアーカイブ

井の頭池のかいぼりで外来魚は消えたのか?

先日、三鷹への出張の際に、久しぶりに井の頭池に立ち寄ってみた。

2014年から実施してきた池の水を抜く「かいぼり」によって、池底が見られるまでではないが、水は以前よりはずいぶんきれいになった気がする。

2017年3月のかいぼりニュースによると、在来の魚やエビ類、水草が大幅に回復してきたということだ。

その日、池を覗いていたら魚影が確認できた。

遠目からでは、ひらべったく、体高が高いようにみえた。

これは一体なんだ???

井の頭池は釣り禁止ですので、釣って確かめる訳にはいかない。

そんな時は、カメラ付きラジコンボートである「あめんぼカメラ」で確認するのが一番。

ということで、後日撮影してきた。

結果、あの「ひらべったく、体高が高い」魚はブルーギルであることがわかった。

カメラに興味をもち、近寄ってくるブルーギル達が、わりとはっきり写っていた。中には、カメラを突く個体も。

ブルーギルには警戒心というものがあまりないのだろうか。

これまであめんぼカメラを40回以上撮影してきたが、このシステムへこんなに興味を示してくれる魚には出会っていなかったのでとても新鮮であった。

なので、映像にはたくさんのブルーギル達が泳ぐ姿が撮影できた。

ある意味面白い映像にはなったが、逆に言うと、こんなに残っていると、再び在来魚にとっては生存の脅威にさらされるということだ。

井の頭池の「かいぼり」で多くの外来魚が駆除されたと聞いていたが、完全な駆除はには至っていなかったと言える。どういう経路で生き延びたのかは不明であるが、外来魚駆除の難しさを感じる。

2017年以降もかいぼりは続くようなので、今後の活動でどのように変わっていくか注目したい。

それではあめんぼカメラの映像です。


設定で「画質=1080p」を選ぶと最高画質でご覧いただけます。

 

お風呂のお湯を暖かいまま流してないですか?

先日、西東京市(エコプラザ西東京)が主催する講演会を聴講してきた。

「知られざる環境変化-都市河川の温暖化-というタイトルで、東京工業大学 環境・社会理工学院 木内教授のお話しを聴かせて頂いた。

温暖化の問題は、気温の事がよく取り上げられるが、都市河川の温暖化という現象が発生しているとは知らなかった。

河川の温暖化のスピード

地球の平均気温は、100年で0.72℃上昇しているそうだが、都市河川の温暖化のスピードは、それ以上だという。多摩川の過去20年間の水温変化でみると3℃以上上昇している地点があるのだ。

原因

で、その原因が下水処理水だという。

下水処理水が河川へ放流されているのだが、その下水処理水の温度が過去に比べて上昇しているからだという。

これは生活様式の変化のためで、お風呂や厨房で使用された、暖かい排水が下水へながれていることに起因している。

蛇口をひねったときの水温も、ヒートアイランド現象によって、以前より上昇しているが、それを差し引いても、風呂や厨房からの排水に起因する部分が大きいのだ。

夏場は、河川水より処理水の温度が平均的に低いので、影響はあまりないが、冬場は、処理水の温度が河川水より高いので、河川水の水温を上げているのだ。

そういえば、同じようなことを聞いた事がある。東久留米市に黒目川という湧水の小川がある。川沿いの清涼飲料水工場からの処理水が黒目川に放流されているが、そのせいで冬場でも水温が比較的高く、魚がよく確認できるそうだ。

影響

河川の温暖化がこのまま続いた場合、河川の生態系への影響が懸念されている。個々の魚が繁殖や生息に最適な水温があるが、高水温が苦手な生き物にとっては好ましい状況でない

すぐ直接的な影響がでる現象ではないそうだが、影響については注意を払う必要がありそうだ。

簡単にできる対策

最近流行りの「冷めにくいお風呂」は次の日でも暖かいというのが売りであるが、暖かいお湯をそのまま下水へ流すと、河川の温暖化に手を貸すことになるので、注意をされたいところだ。排水する前に、風呂蓋を外し、水温を少しでも下げてから排水を心がけたいところである。

また、厨房では必要以上に暖かいお湯を使わないという心がけも良いだろう。

下水処理水のエネルギー利用という点では、ヒートポンプ技術を使ったシステムが実用化されているということだが、広がりはこれからのようだ。今後の下水処理水エネルギーの利用拡大に期待したい。

ちなみに自宅の風呂はすぐ冷めるタイプである。よしよし!

 

小川があると蚊が増える?

小川があると蚊が増える?

この疑問をよく耳にする。

これは無理もない。刺されると痒いだけでなく、地球上でもっとも人間を殺しているのが蚊だからだ。
2014年のこの記事によると、1年間に人間が蚊によって殺された数が72万5千人で1位だという。もちろん、蚊が人間を直接殺すということではなく、蚊が人間に運ぶマラリアなどの病原体が死因になる。

蚊は人間にとって危険な生き物であるということは間違いないだろう。

そうすると、人間の住むところから蚊を遠ざけたいという気持ちは当然起こる。そして蚊の発生源つまりボウフラが湧く箇所を減らしたいとい気持ちになるだろう。

「蚊の発生源」=「水のあるところ」?

ここで皆さんに聞いて見たい事がある。
「蚊の発生源」=「水のあるところ」
という考えを持っていないだろうか?

そうだとするとこれは行き過ぎた考えである。

なぜなら、先日、蚊に詳しい方とお話ししたのだが「水のあるところ」でも「流れがあると蚊の発生源になりにくい」というからだ。

気になったので、もう少しネットでも調べてみた。山形衛生研究所が発行したニュースにも同じ事ような事が書かれていた。「ほとんどの蚊は流れのある川などでは発生せず流れがない水域を発生源とします。

まとめ

いかがでしょうか?
水の流れのない雨水が溜まったバケツは、蚊の発生源になりやすいが、流れのある小川は、蚊の発生原になりにくいということのようだ。

注意したいのは、小川には蚊がいないということではなく、流れのある小川は蚊の発生源になりにくいということであり、小川に茂みがあれば、蚊が潜んでいることは十分ありうるので、蚊に刺されないための対策は怠ってはいけない。

児童公園に水遊び場があったりするが、蚊の発生という不安から閉鎖されたという場合もあるようだ。閉鎖を検討する前に流れを作って蚊の発生に対抗する方法を検討することもありだと思う。

子供が大好きな水遊び場を、安易に奪ってしまうことがないようにあって欲しい。

おまけ

ちなみに家の庭やベランダで蚊に困っている人は、蚊の発生源になりそうな水たまりがないかなチェックしてみることをオススメする。

  • バケツ
  • 子供の遊具(シャベルとか)
  • 空き缶、空き瓶
  • 園芸用の植木鉢の受け皿、庭の汲み置き水、放置のジョウロ
  • 雨よけシート(ブルーシート)の窪みに溜まった水
  • 側溝や雨どいの詰まり
  • 古タイヤ
  • 竹やぶの竹の切り株
    参考:目黒区ーこんなところが蚊の発生源

池はどうするの?

我が家のプラ舟池では、小魚を飼いボウフラを食べてもらうことと、太陽光で動作する噴水を導入して水面に流れを作ることの2つで対策をしている。

少しは発生源対策に貢献しているかと…

今度、水の流れのないバケツと水の流れのあるバケツでボウフラの発生の違いが確認できるか実験でもしてみたいと思う。

 

小川に求められるコト

先日オイコノミアというテレビ番組に「そら植物園」の代表である西畠清順さんが出演されていた。
プラントハンターとして流通していない、特殊な場所でしか手に入れれないような植物をクライアントへ届ける仕事もしているという。

又吉さんからの問いに対する答えがとても印象に残ったのでシェアしたい。
「いま求められる植物は?」

「昔は薬や食べ物など直接的に人間の生活に役立つものが求められていた。
今はどんだけ豊かな空間を作り出せるか、どんだけ劇的なシーンを創り出すか、都会では感じにくい季節感を感じてもらうとか、体でなく心に作用するものが求められている。
なんでそこにその木が必要なのか?なんでそこを緑豊かにする必要があるのか?つまり意味のある緑化や意味のある植物空間が求められる。」

植物に求められる事が時代とともに「心に作用する」ものへ変わってきたということだ。
時代とともに変わってきたものと言えば小川も同じだ。

江戸時代に飲み用水や田用水として作られた玉川上水の分水は、時代と共にその役割を終えた。都市部にあった小川は、人口が増えるとともに生活排水が多量に流れる下水の役割になったり、大雨で降った雨を海へ速やかに流す役割へ変わった。

そして今は?

西畠さんの言葉と同じように、人の心に作用する小川というものが、求められていると思う。

「潤いとか安らぎを感じられる小川を」というキャッチフレーズは確かに心を刺激しそうだが、さらに加えて、なんでそこに小川が必要なのか?という意味づけがあるとより心に響きそうだ。

意味づけは、物語と言っても良いだろう。

例えば、小川に関する言い伝えであったり、昔の人が小川とどう関わってきたかだ。

そういった意味づけによって、人の心に作用する小川が増えて欲しいと思う。

野火止用水開削の裏事情

野火止(のびどめ)用水をご存知であろうか?

玉川上水の最初の分水で、東京都立川市を起点として、新座市を経由し新河岸川に流れる約24kmの水路である。

小川の雰囲気がとてもいい感じである。

玉川上水開設の総奉行であった松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)がその上水完成の功績により将軍から受けた恩賞が、野火止用水であったそうだ。

不毛の地・野火止を潤すために、信綱が開削を指示し、別名「伊豆殿掘」とも呼ばれ、信綱は川越藩の領民から名君として崇められたそうだ。

そんな名君信綱に対して、、『上水記考』の著者は、彼が実施した次の点を指摘しているところがとても興味深い。

信綱は、玉川上水開削着工以前に、各自に金2両・ 米1俵を支給して55軒の農家を野火止に入植させているという点だ。

つまり、玉川上水完成の恩賞として、野火止用水の分水を受けることを想定し、野火止への入植を、玉川上水の開削に先行させていたという。

不毛の地・野火止で領民が水に困っているというアピールにも利用したのかもしれない。

また、家臣安松金右衛門に、最適な分水口位置の選定と堀筋をの設計を命じ、野火止への分水に事前に備えていたとも指摘している。

分水の許可が下りると、工事は直ちに着工され40日間で約24kmを掘り切ったのだ。

野火止用水を得てから6年後には野火止の村高は535石に変貌したという。

信綱は自らの川越藩の繁栄を目論見、恩賞としての野火止用水ありきで玉川上水を開削したと考察しているところが面白い。

入植のために金品を渡しているところが賄賂と捉えられてもおかしくないが、自藩の繁栄のための戦略と考えると、「知恵伊豆」と呼ばれた切れ者だったことが伺える。

こういった考え方は現代でも応用できる考え方なのかもしれない。

小川からまた1つ役に立つ話が見つけられた。

参考
『上水記考』 恩田政行

ネガティブな懸念を越えて

先日、小平市の用水について古老の語りをまとめた資料を読んだ。
その中に興味深い話が書かれていたので紹介したいと思う。

小平市に古くから住んでいる方の話だ。
自宅は、江戸時代の新田開発によって、街道沿いに作られた短冊状の区割りを持つ家。

各区割りの敷地内には、玉川上水の分水が流れ、農地と家と屋敷林がある。武蔵野を代表する農家の形だ。

街道沿いには欅(ケヤキ)が植えられ、街道は欅のトンネルだったという。

その欅だが、近隣に住宅が増えるに従って、住民からの苦情が来るようになったそうだ。
「落ち葉が飛んでくるので掃除が大変だ」
「枝が折れて落ちてきそうで危ない」
こういう苦情を言われたり、言われるかもしれないということで立派に育った欅を切ってしまうお家もあるそうだ。

どうやらこういった理由から自然が減っていくこともあるようだ。
危険な枝があるならその枝を切ることは必要かと思うが、落ち葉についてはどうなんだろうかと思う。

苦情を言ってくる人は、後からこの地に住み始めた人であって、元々そこにあった欅の落ち葉に対して苦情を言うのはちょっと違う気がする。
こういうクレーマーがいるのは、本当に残念だ。

元々ある自然を大事にし、落ち葉についても配慮した解決策は出せないのだろうかと切に思う。

例えば、焼き芋イベントを開催し、近隣の人を集めても良いだろう。みんなで落ち葉を集め、焚き火をして焼き芋を参加者全員で分け合ったら一石二鳥だ。その時その欅の事や昔話が聴ければ、新しい住民が町のことを知る良い機会になる。

「焚き火なんてしたら、洗濯物が臭くなる」とか新たに懸念を抱く人がきっといるだろう。でも重要なのは、元いた住民と新たに来た住民とのコミュニケーションだと思う。
きっと顔見知りになれば、少しの事は許せるようになるはずだ。

ところで私は西東京市の小川として田無用水が復活して欲しいと願っている。小平市では、分水口から約1km程は水が流れているがその先は水がない。西東京市内については暗渠もしくは埋もれている。
もし昔のように復元しようと提案するとまず先に挙がる懸念が「蚊が増えるからやめてくれ」だ。

確かにそういう問題はあるかもしれないが、清らかな小川が街に潤いを与え、かつ蚊による不快な思いが少ない解決策をみんなで考えれば良いだけの話である。落ち葉が飛んで来るから木を切れとか、蚊が増えるから水を流すなという短絡的な解決策を求めず、我々はもっとよい解決策を見出せるはずである。

参照
『用水路 昔語り 第一集』 こだいら 水と緑の会

田無の小川〜田無用水へ接続する水路の背景を知ると得られる人生のヒント

前回に引き続き、田無にあった小川(水路)のお話しをしたいと思います。

今回は、柳久保用水から田無用水へ接続する水路(黒色)ができた歴史的背景にせまりたいと思います。

明治初期の水不足から生じた水争いと、田無村がその水不足をいかにして克服したか?この困難への対応方法は、現代の私たちにも良いヒントを与えてくれると思います。

上流と下流の水争い

1870(明治3)年、通船事業や東京市中の水量確保のため、玉川上水の分水口が統合されました。

玉川上水の北側にある野火止用水から千川用水まで8つの用水は、それぞれ直接、玉川上水から分水されていたのですが、新たに作られた新井筋(新堀用水)から分水するように1本化されました。
新井筋1

その後、1871(明治4)年に、新井筋の下流の千川用水では、水量が確保できないという問題が生じ、新井筋とは別の用水口となりました。その水積200寸坪(※)は、新井筋を流れて最下流で玉川上水に戻り(帰流)、その下流で千川用水が取水しました。
※水積とは水が流れる断面積で、結果的に水量を意味する。寸坪は1寸四方の面積の単位。1寸坪は約9.1827cm2

しかし、玉川上水の管轄が民部省土木司から東京府へ移ると、1875(明治8)年3月、新井筋への千川用水分200寸坪と帰流分10寸坪が減らされてしまうのです。

これにより水量が減り水争いが勃発します。

対立構造は、最上流の野火止用水側(野火止村他6ヶ村)と下流側(小川村他18ヶ村)です。

下流側の主張
「新井筋の水量が減ったので調査したら、野火止用水口の板敷が1尺下がっているじゃないか。元に戻してくれ。下流の村に水が流れず生活に困る。」

野火止用水側の主張
「1871(明治4)年の分水口統合以降、数回の水量減少に応じてきた。これ以上無理。」

東京府が水量を減らした結果、野火止用水側がこそっと、取り入れ口の板敷を下げて、野火止用水に水が多く流れるようにしたんでしょうか。勝手に板敷を下げたのが事実であれば、明らかにルール違反なので直ぐに元に戻すのが当たり前のような気がしますが、直ぐに解決する問題ではなかったようです。

この問題は東京府が間に入りますが、解決には長い時間がかかります。1889(明治22)年に、新井筋と野火止用水は取水口が同じでもすぐ下流で2つに分離される方式になり、和解に向かいます。

蛇口をひねれば直ぐに水が得られる今の時代には、想像のつかない話ですね。当時の人たちの生活が用水にいかに頼っていたのかがよく伺えます。

東京市街の水不足による減水

田無用水は当初、田無村だけの使用で、分水口は16寸坪から始まりました。やがて、1870年の分水口の統合により16寸坪から56寸坪に増加します。

1871年には、田無用水から分水して、石神井や練馬までの村々へ水を引き水田を作る目的で、長さ約17.5kmの田柄(たがら)用水が開削されます。

地図では田無駅北側から分水されている水路(紫色)が田柄用水です。途中までしか記載していませんが、石神井川と白子川の間の高台を通り、途中からは田柄川を利用して開削されました。

これに合わせて田無用水の分水口も113寸坪5勺へ増加されます。

しかし、1877(明治10)年、東京市街の水不足の解決のため、分水口は113寸坪5勺が56寸坪5合に半減されてしまいます。

また、突然の行政による水量減らしです。

このため田無用水の水不足は他の用水よりひどい状態になったようです。

水不足を克服した妙案

田無村及び田柄用水沿いの村々(田無村他8ヶ村組合)は、その解決のため新井筋上流の各分水の流末に着目します。

当時、大沼田用水、野中用水、柳久保用水の流末は、5か所で、溜まって消えていました。この流末を柳久保用水に合流させて使用したいと考えたのです。

しかし、田無村他8ヶ村組合は、この工事費用を捻出するために妙案を考えます。

当時、石神井川の水を利用して水車を回していた、陸軍の板橋火薬製造所(以下、板橋火薬とする)は、石神井川の水量不足で水車が回せない時があり困っていました。

そこで、田無用水の流末を田柄用水経由で石神井川に合流させることで、板橋火薬が使用できる水を増やすメリットを提案し、板橋火薬から工事費の助成を受けるのです。

田無村他8ヶ村組合のやり方が、とっても上手いと感じてしまうのは私だけでしょうか。

自分たちの目的を果たすために、他者のメリットも叶えてあげると自分たちだけで実現した場合のコストより安くできてしまうんですね。

その後、1888(明治21)年に、大沼田用水、野中用水を柳久保用水に合流させ、さらに田無用水に合流させることができました。

これが田無用水へ接続する水路(黒色)になります。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

田無用水へ接続する水路の背景を知ることで、田無の人たちが、明治初期の水不足をいかに克服したかが理解できたと思います。この困難への対応方法が現代の私たちへの良いヒントになれば幸いです

参考
近代化を支えた多摩川の水 小坂克信
田無用水関係資料

田無の小川~田無に残る水路の痕跡

こんばんは。

私は田無(旧田無市のこと。現在は西東京市となっています。)に移り住んで8年くらいになりますが、かつてこんなに水路があったなんて全く想像もしておりませんでした。調べる程、田無に水路がたくさんあったことがわかってきました。

今回は概略を紹介したいと思います。

田無に敷かれた水路

田無用水

玉川上水から分水して田無村への生活用水として敷かれました。開削時期は、はっきりしていませんが、1700(元禄13)年、±2年に開削されたと推定されているようです。開削されたときは玉川上水の喜平橋の下手から分水していましたが、1870(明治3)年に、玉川上水における通船事業や東京市中の水量確保のため、玉川上水の分水口が統合されて、新堀(しんぼり)用水(新井筋とも呼ぶ)から分水するようになりました。そしてその後水争いが起きるのですが、詳しくは後の記事とします。田無用水については過去の記事を参照ください。

地図では水色で示しています。

田無新田用水

1770(明和7)年、田無新田の開発のために開削されました。できた当時は水料金が無かったそうな。

地図では薄紫で示しています。上流部分は省略していますが、詳細が判明したら追記したいと思います。関野用水から分水していたようです。

柳久保用水の残水利用

1849(嘉永2)年、柳久保用水の残水を田無村の摺鉢窪へ引き入れ畑を田んぼにしたとあります。摺鉢窪の場所が明確ではないのですがひばりヶ丘団地付近だという説があります。

また、1862(文久2)年、同じく柳久保用水の残水を田無村の藤谷窪へ引き入れ畑を田んぼにしたとあります。藤谷窪の場所は文華女子高等学校のあたりだと言われています。

芝久保用水

1871(明治4)年、芝久保2丁目で田無用水から分水し、石神井川に落ちる付近では田用水に利用されました。

地図では紺色で示しています。

田柄(たがら)用水

1871(明治4)年、田無村、上保谷村、関村、上石神井村、下石神井村、田中村、下土支田村、上練馬村、下練馬村の8ヵ村は、新たに田無用水から分水して村々に水が行きわたるようにすれば、水田が50町歩できて税収が見込めると所管の品川県に願い出ました。そしてできたのが田柄用水です。水路の長さは約17.5kmです。

地図では紫色で示しています。下流部分は省略していますが、詳細が判明したら追記したいと思います。

柳久保用水から田無用水へ接続

柳久保用水から田無用水へ接続する水路(黒色)があります。

1888(明治21)年に完成した新しめな水路です。実はこの水路ができた歴史的背景がとても興味深いものがあります。水争いが大きく関係しています。詳しくは次回の記事に譲ります。

まとめ

いかがでしょうか?田無用水ができてから明治の初めまでに、少しずつ用水網が拡大してきました。

田無には小川が無かったと思いがちなのすが、明治時代には用水という小川がたくさんありました。これらの用水であそぶことができたのかは定かではありませんが、良い風景だったに違いないでしょう。

しかし、今では全てが暗渠になっているか、埋め立てられて痕跡すら残っていません。。

個人的にはとても残念で仕方ありませんが、その時の社会の要望に従い創造され、そして破壊されたのでしょうね。

時代に翻弄された小川です。

 

 

 

 

小川の問題に取り組むと身に付くコト

こんばんは。

朝の通勤電車の中で、日能研の「◻︎◯シリーズ」の問題を目にしました。

その中には、干潟についての問題が記載されていました。

干潟についての問題

要約するとこんな感じ。

干潟は、高度経済成長期に干拓によって農地化されてしまった。

Q1:干潟が干拓され易い理由を述べよ。

Q2:干潟を守る上で何が重要か?あなたの考える「干潟の保護」を1行で述べよ。

大人でもなかなか答えに困る問題だなと感じます。

ここで私が言いたいのは、この問いに答えられるかどうかではなく、この問題に込められたメッセージの奥深さです。

問いに込められたメッセージ

原文を引用します。

とても共感できる考えでした。

小川の問題について子どもたちが取り組んだ場合でも、全く同じことが言えるのです。

なので、私はぜひ小川に関する次の問いを子どもたちに投げかけてみたいです。

武蔵野台地上の小川は、地域の都市化が進むに従って、大都市特有の水害(都市水害)が多発するようになった。水害から街を守るため、小川の川底は深く掘られ、垂直の護岸がつくられるようになった。

Q1:地域の都市化が進むにしたがって、水害が多発するようになった理由を述べよ。

ぜひ、子どもたちと一緒に考えてみてはいかがでしょうか?きっと「自分ごと」として課題に向き合うチカラが身に付いていくと思います。

武蔵野市の地下水の割合は減らせないの?

こんばんは。

前回の記事では、井の頭池の湧水復活に期待がもてる方法として、守田優さんの著書を紹介し、武蔵野市の地下水の汲み上げを適切に削減できるかが大きな課題であるとしました。で、武蔵野市の水道における地下水利用が約80%と大きいので、割合を減らせないのか武蔵野市に問い合わせてみました。

どうして地下水の割合が高いの?

武蔵野市水道部工務課からの回答を一部補足して要約します。

?という感じなので、私なりの解釈で簡潔にまとめてみます。

どうして地下水の割合が高いの?

「もともと地下水100%で水道を始めたけど、人口が増えて水道が不足したので、河川水を東京都から購入して不足を補うようにした。一方、他市のように、水道事業の一元化がまだ進んでいないから、他市に比べて、地下水の割合が高い。」

と言ったところでしょう。

武蔵野市は現在、都営一元化を進めるための準備を進めているようですが、何が問題で一元化が進んでいないのか、回答からはいまいち分かりませんでした。しかし、平成12年には次のような意向が示されていたようです。

 

地下水の割合は減らせるの?

一元化がいつ実施されるのか分かりませんが、実施されればいづれ武蔵野市の河川水使用の割合が増え、地下水の割合は減ることと思われます。地下水の汲み上げを減らすことで、井の頭池の湧水が復活するはずだという立場をとると、「早く一元化してください!」ということになります。

一方、一元化しないで地下水くみ上げを減らす場合、東京都からの河川水の購入を増やす必要が生じます。その場合、経費を増やせる程、予算に余裕はないとのことでした。

決められた予算のなかで水道事業が行われているのだから、これはもっともな回答だと思います。

まとめ

武蔵野市の水道の地下水割合を減らすには、水道事業の都営一元化の問題だったり、水道事業の予算の問題だったり、難しい政治の課題があることがわかりました。一元化を待つことが、一番現実的な気がしますが、いづれにしても地下水汲み上げ量が減る方策が早くなされることを切望します。

井の頭池の湧水復活により、東京に小川が増えるきっかけになると信じています。

参考
・武蔵野市水道部工務課からの回答
多摩地域水道の都営一元化における広域化の意味
多摩地区の水道