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〇〇村誕生ラッシュ

綾瀬はるかさん主演のTBS系ドラマ『義母と娘のブルース』を毎回楽しみに見ている。

その綾瀬さんの名前だが、名字由来netさんのランキングによると全国におよそ60人程度しかいないレアな名前だ。

名字以外では、綾瀬は川の名前や地名としても使われている。

埼玉県、東京都を流れる綾瀬川(あやせがわ)は利根川水系中川の支流である。帰省した時にたまに釣りに行く小川であり、個人的には馴染みがある好きな川だ。最近では水質も向上し、アユの遡上も確認される程だ。

綾瀬川に隣接する場所には、綾瀬という地名が2つ残っている。

上流域には、埼玉県蓮田市綾瀬があり、かつての埼玉県南埼玉群綾瀬村にちなむという。

1889年(明治22年)4月1日 - 蓮田村・貝塚村・閏戸村が合併し、南埼玉郡綾瀬村が成立。(Wikipedia)

一方、下流域には東京都足立区綾瀬があり、かつての東京府南足立郡綾瀬村にちなむという。

1889年(明治22年)5月1日 - 五兵衛新田・弥五郎新田・次郎左衛門新田・伊藤谷村と保木間村字二ツ家などの多村の飛地が合併し、東京府南足立郡綾瀬村が成立。(Wikipedia)

市制・町村制が施行された年ということもあるが、偶然にも、ほぼ同じ時期に綾瀬川の上流と下流に同じ名前の村ができたというのは面白い。南埼玉群の方がひと月年上だが、「名前がカブってる」的な話は出なかったのだろうか。少しきになってしまう。

上流の綾瀬村も下流の綾瀬村も綾瀬川沿いにあり、その川の名に由来する。では、綾瀬川の由来はどうだろう?

江戸時代以前の綾瀬川は、ひと雨降る度にすぐ流れが変わってしまうほど、川筋が定まらない川だったという。そのため、多くの「瀬」が乱流して、その様子が「綾」に似ていたとする説と、流路を度々変えることから「あやしの川」と呼ばれるようになり、それが転化したという説がある。

綾という字のとても上品なイメージとは異なり、自然の脅威が影響していたとは、ちょっと意外である。

また、神奈川県にも綾瀬市が存在するが、かつての高座郡綾瀬村にちなむ。

1889年(明治22年)4月1日 : 小園村・早川村・吉岡村・寺尾村・深谷村・蓼川村・本蓼川村・上土棚村の8村が合併し、高座郡綾瀬村が成立。(Wikipedia)

こちらもなんと、明治22年に成立している。
明治22年は「綾瀬村」の誕生ラッシュだったのだ。

ちなみに神奈川県の綾瀬村の名前の由来は、3つの説があるそうだ。当時、市内を流れる蓼川(たでがわ)が「綾瀬川」と呼ばれていたからという説。河川の支流(瀬)が綾をなしている様子からついた説。また、当時、養蚕が盛んであったことから、その絹でできた綾にちなんでいるという説。真相や如何に?

ドラマでは、「奇跡はけっこうよく起きる」というセリフが印象的であったが、綾瀬村の誕生ラッシュも奇跡の1つだったのかもしれない。

野火止用水開削の裏事情

野火止(のびどめ)用水をご存知であろうか?

玉川上水の最初の分水で、東京都立川市を起点として、新座市を経由し新河岸川に流れる約24kmの水路である。

小川の雰囲気がとてもいい感じである。

玉川上水開設の総奉行であった松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)がその上水完成の功績により将軍から受けた恩賞が、野火止用水であったそうだ。

不毛の地・野火止を潤すために、信綱が開削を指示し、別名「伊豆殿掘」とも呼ばれ、信綱は川越藩の領民から名君として崇められたそうだ。

そんな名君信綱に対して、、『上水記考』の著者は、彼が実施した次の点を指摘しているところがとても興味深い。

信綱は、玉川上水開削着工以前に、各自に金2両・ 米1俵を支給して55軒の農家を野火止に入植させているという点だ。

つまり、玉川上水完成の恩賞として、野火止用水の分水を受けることを想定し、野火止への入植を、玉川上水の開削に先行させていたという。

不毛の地・野火止で領民が水に困っているというアピールにも利用したのかもしれない。

また、家臣安松金右衛門に、最適な分水口位置の選定と堀筋をの設計を命じ、野火止への分水に事前に備えていたとも指摘している。

分水の許可が下りると、工事は直ちに着工され40日間で約24kmを掘り切ったのだ。

野火止用水を得てから6年後には野火止の村高は535石に変貌したという。

信綱は自らの川越藩の繁栄を目論見、恩賞としての野火止用水ありきで玉川上水を開削したと考察しているところが面白い。

入植のために金品を渡しているところが賄賂と捉えられてもおかしくないが、自藩の繁栄のための戦略と考えると、「知恵伊豆」と呼ばれた切れ者だったことが伺える。

こういった考え方は現代でも応用できる考え方なのかもしれない。

小川からまた1つ役に立つ話が見つけられた。

参考
『上水記考』 恩田政行

田無の小川〜田無用水へ接続する水路の背景を知ると得られる人生のヒント

前回に引き続き、田無にあった小川(水路)のお話しをしたいと思います。

今回は、柳久保用水から田無用水へ接続する水路(黒色)ができた歴史的背景にせまりたいと思います。

明治初期の水不足から生じた水争いと、田無村がその水不足をいかにして克服したか?この困難への対応方法は、現代の私たちにも良いヒントを与えてくれると思います。

上流と下流の水争い

1870(明治3)年、通船事業や東京市中の水量確保のため、玉川上水の分水口が統合されました。

玉川上水の北側にある野火止用水から千川用水まで8つの用水は、それぞれ直接、玉川上水から分水されていたのですが、新たに作られた新井筋(新堀用水)から分水するように1本化されました。
新井筋1

その後、1871(明治4)年に、新井筋の下流の千川用水では、水量が確保できないという問題が生じ、新井筋とは別の用水口となりました。その水積200寸坪(※)は、新井筋を流れて最下流で玉川上水に戻り(帰流)、その下流で千川用水が取水しました。
※水積とは水が流れる断面積で、結果的に水量を意味する。寸坪は1寸四方の面積の単位。1寸坪は約9.1827cm2

しかし、玉川上水の管轄が民部省土木司から東京府へ移ると、1875(明治8)年3月、新井筋への千川用水分200寸坪と帰流分10寸坪が減らされてしまうのです。

これにより水量が減り水争いが勃発します。

対立構造は、最上流の野火止用水側(野火止村他6ヶ村)と下流側(小川村他18ヶ村)です。

下流側の主張
「新井筋の水量が減ったので調査したら、野火止用水口の板敷が1尺下がっているじゃないか。元に戻してくれ。下流の村に水が流れず生活に困る。」

野火止用水側の主張
「1871(明治4)年の分水口統合以降、数回の水量減少に応じてきた。これ以上無理。」

東京府が水量を減らした結果、野火止用水側がこそっと、取り入れ口の板敷を下げて、野火止用水に水が多く流れるようにしたんでしょうか。勝手に板敷を下げたのが事実であれば、明らかにルール違反なので直ぐに元に戻すのが当たり前のような気がしますが、直ぐに解決する問題ではなかったようです。

この問題は東京府が間に入りますが、解決には長い時間がかかります。1889(明治22)年に、新井筋と野火止用水は取水口が同じでもすぐ下流で2つに分離される方式になり、和解に向かいます。

蛇口をひねれば直ぐに水が得られる今の時代には、想像のつかない話ですね。当時の人たちの生活が用水にいかに頼っていたのかがよく伺えます。

東京市街の水不足による減水

田無用水は当初、田無村だけの使用で、分水口は16寸坪から始まりました。やがて、1870年の分水口の統合により16寸坪から56寸坪に増加します。

1871年には、田無用水から分水して、石神井や練馬までの村々へ水を引き水田を作る目的で、長さ約17.5kmの田柄(たがら)用水が開削されます。

地図では田無駅北側から分水されている水路(紫色)が田柄用水です。途中までしか記載していませんが、石神井川と白子川の間の高台を通り、途中からは田柄川を利用して開削されました。

これに合わせて田無用水の分水口も113寸坪5勺へ増加されます。

しかし、1877(明治10)年、東京市街の水不足の解決のため、分水口は113寸坪5勺が56寸坪5合に半減されてしまいます。

また、突然の行政による水量減らしです。

このため田無用水の水不足は他の用水よりひどい状態になったようです。

水不足を克服した妙案

田無村及び田柄用水沿いの村々(田無村他8ヶ村組合)は、その解決のため新井筋上流の各分水の流末に着目します。

当時、大沼田用水、野中用水、柳久保用水の流末は、5か所で、溜まって消えていました。この流末を柳久保用水に合流させて使用したいと考えたのです。

しかし、田無村他8ヶ村組合は、この工事費用を捻出するために妙案を考えます。

当時、石神井川の水を利用して水車を回していた、陸軍の板橋火薬製造所(以下、板橋火薬とする)は、石神井川の水量不足で水車が回せない時があり困っていました。

そこで、田無用水の流末を田柄用水経由で石神井川に合流させることで、板橋火薬が使用できる水を増やすメリットを提案し、板橋火薬から工事費の助成を受けるのです。

田無村他8ヶ村組合のやり方が、とっても上手いと感じてしまうのは私だけでしょうか。

自分たちの目的を果たすために、他者のメリットも叶えてあげると自分たちだけで実現した場合のコストより安くできてしまうんですね。

その後、1888(明治21)年に、大沼田用水、野中用水を柳久保用水に合流させ、さらに田無用水に合流させることができました。

これが田無用水へ接続する水路(黒色)になります。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

田無用水へ接続する水路の背景を知ることで、田無の人たちが、明治初期の水不足をいかに克服したかが理解できたと思います。この困難への対応方法が現代の私たちへの良いヒントになれば幸いです

参考
近代化を支えた多摩川の水 小坂克信
田無用水関係資料

田無の小川~田無に残る水路の痕跡

こんばんは。

私は田無(旧田無市のこと。現在は西東京市となっています。)に移り住んで8年くらいになりますが、かつてこんなに水路があったなんて全く想像もしておりませんでした。調べる程、田無に水路がたくさんあったことがわかってきました。

今回は概略を紹介したいと思います。

田無に敷かれた水路

田無用水

玉川上水から分水して田無村への生活用水として敷かれました。開削時期は、はっきりしていませんが、1700(元禄13)年、±2年に開削されたと推定されているようです。開削されたときは玉川上水の喜平橋の下手から分水していましたが、1870(明治3)年に、玉川上水における通船事業や東京市中の水量確保のため、玉川上水の分水口が統合されて、新堀(しんぼり)用水(新井筋とも呼ぶ)から分水するようになりました。そしてその後水争いが起きるのですが、詳しくは後の記事とします。田無用水については過去の記事を参照ください。

地図では水色で示しています。

田無新田用水

1770(明和7)年、田無新田の開発のために開削されました。できた当時は水料金が無かったそうな。

地図では薄紫で示しています。上流部分は省略していますが、詳細が判明したら追記したいと思います。関野用水から分水していたようです。

柳久保用水の残水利用

1849(嘉永2)年、柳久保用水の残水を田無村の摺鉢窪へ引き入れ畑を田んぼにしたとあります。摺鉢窪の場所が明確ではないのですがひばりヶ丘団地付近だという説があります。

また、1862(文久2)年、同じく柳久保用水の残水を田無村の藤谷窪へ引き入れ畑を田んぼにしたとあります。藤谷窪の場所は文華女子高等学校のあたりだと言われています。

芝久保用水

1871(明治4)年、芝久保2丁目で田無用水から分水し、石神井川に落ちる付近では田用水に利用されました。

地図では紺色で示しています。

田柄(たがら)用水

1871(明治4)年、田無村、上保谷村、関村、上石神井村、下石神井村、田中村、下土支田村、上練馬村、下練馬村の8ヵ村は、新たに田無用水から分水して村々に水が行きわたるようにすれば、水田が50町歩できて税収が見込めると所管の品川県に願い出ました。そしてできたのが田柄用水です。水路の長さは約17.5kmです。

地図では紫色で示しています。下流部分は省略していますが、詳細が判明したら追記したいと思います。

柳久保用水から田無用水へ接続

柳久保用水から田無用水へ接続する水路(黒色)があります。

1888(明治21)年に完成した新しめな水路です。実はこの水路ができた歴史的背景がとても興味深いものがあります。水争いが大きく関係しています。詳しくは次回の記事に譲ります。

まとめ

いかがでしょうか?田無用水ができてから明治の初めまでに、少しずつ用水網が拡大してきました。

田無には小川が無かったと思いがちなのすが、明治時代には用水という小川がたくさんありました。これらの用水であそぶことができたのかは定かではありませんが、良い風景だったに違いないでしょう。

しかし、今では全てが暗渠になっているか、埋め立てられて痕跡すら残っていません。。

個人的にはとても残念で仕方ありませんが、その時の社会の要望に従い創造され、そして破壊されたのでしょうね。

時代に翻弄された小川です。

 

 

 

 

田無用水を再生すると得られる3つの良い効果~その3

こんにちは。

前回に引き続き、田無用水の再生という思いを込めて、田無用水を再生すると得られる3つの良いことをご紹介したいと思います。

良いことその3〜夏の暑さを和らげる

近年、ヒートアイランド現象によって、東京の気温が上がっているということが報じられています。確かに暑いのは暑いのですが、実際のところ東京の気温がいつに比べてどれくらい上昇しているのでしょうか?

東京都環境局のデータによると、100 年前の東京では、猛暑日(最高気温が 35°C以上の日)はほとんど観測されていませんが、最近では、年間で 10 日を超える年が頻繁に現れています。

そして、過去 100 年の間に、日本では平均気温が約1.2°C上昇しているのに対し、東京の平均気温は約 3°C上昇しているのです。

約3°というと実感値がわかないかもしれないですが、気温上昇の影響として引き起こされる現象として、「利用可能な水が減少する」とか、「広い範囲で生物多様性の損失が起きる」という評価がされています。

先の見えない不安が増すことは間違いないでしょう。

では、私たちにできることはないのでしょうか?

『都市河川周辺における大気冷却効果に関する研究』によると、河川は周辺に対して冷源となっており,大河川で約4°C,小河川で約1°C,河川上の気温が低いことが示されています。

この考えに基づけば、田無用水が再生され水が流れることにより、用水沿いの地域は、少なからず気温が下がることが期待されます。

上記研究では、川幅12mの小河川の例で約1℃であるため、川幅1mの水路であれば、1℃よりずっと少ない低下になるかもしれません。

それでも、多少の効果は期待できるはずです。

まとめ

これまで3回に分けて、田無用水を再生すると得られる3つの良いことをご紹介してきました。

  1. 水の大切さを知ることができる
  2. 水が人を呼ぶ
  3. 夏の暑さを和らげる

「こんだけ良いことがあるなら、田無用水を再生させると良いね!」と多くの皆さんに思って頂ければ嬉しいです。

きっと西東京市に小川が増える力になるでしょう。

参考

東京都環境局ホームページ
都市河川周辺における大気冷却効果に関する研究
地球温暖化が進むとどうなる? WWFホームページ

田無用水を再生すると得られる3つの良い効果~その2

こんにちは。

前回に引き続き、田無用水の再生という思いを込めて、田無用水を再生すると得られる3つの良いことをご紹介したいと思います。

良いことその2〜「水が人を呼ぶ」法則

昭和27年、東京都より田無用水の流水の中止通知が川筋の町村長宛てに届き、時の町村長は直ちに連盟で流水継続の請願書を提出しています。その請願書の中で、とても素敵な言葉を使っているのが印象的でした。

「水は人を呼び人はそれを慕って集う。」

まさに言い得て妙な言葉です。おそらく当時も語り継がれている言葉なのだと思います。

そして請願書の中でもこの言葉通り田無用水流域へ人が集まり発展してきたことを書きつづっています。

この分水流域に来たり住んで開墾の鍬を振るう人が漸次増加するに及んで今日のごとき市町村が反映することが出来た訳であります。しばらくしてこの流域の住民はこの水によって食料の増産及び防火のために少なからざる恩恵に浴しつつ、生業に勤しみ子孫の繁栄のために努力しけり。

この言葉は、ビジネスにおける集客やまちづくりの方法に対して良いヒントを与えてくれます。

田無駅の北口には青梅街道を挟むように2本に分かれた田無用水がありました。現在は蓋がされて「やすらぎのこみち」や「ふれあいのこみち」と呼ばれる歩道になっています。そしてこの周辺には商業施設もたくさんあります。

もし、この歩道機能を残しつつ、小川のような田無用水が再生されたなどうなるでしょうか?

この名言が正しいとすると、当時は生活用水を得るため水を求めて人が集まってきましが、現代においては、小川から安らぎやふれ合いを求めて人が集まってくるはずです。

そうなるとどうでしょうか?商業施設の人たちにとって、田無用水という小川が集客のツールになってくるのです。田無用水沿いのカフェなんて最高です。小川に流れる清流の音を聴きながら過ごす時間はどれほど贅沢な時間になるでしょうか。

最近ではタリーズコーヒーが水辺のカフェということで、隅田川沿いにカフェを運営していますが、「水辺の賑わいを創出し、まちを活性化する」といった考えと同じことが言えるんだと思います。

通勤路として使っていた人だってメリットがあります。それまで、駅から家までの通り道でしかなかった歩道が、心癒される空間に変わったらどうでしょうか?会社でイヤなことがあっても、気持ちよくそこを通ることで、少しは元気になったりするのではないでしょうか。

このように水があると人が集まり、まちが活性化するのです。

再生に向けての課題解決できる?

「歩道機能を残しつつ、小川のような田無用水が再生させる」ということは難しい課題ではありますが、通路が狭ければウッドデッキのような通路の下に水が流れるようにしたり、通路が広ければ、半分は通路、半分は水路のようにして、水辺に親しめるような空間を作ったりできると思います。できる場所から少しずつ、工夫していけば良いと思います。

田無用水の昔の様子

読んでいると心が躍ってしまう田無用水の昔の様子を文献から引用します。

本流の川幅は、三、四尺位(90cm~120cm)で水量も多く、毎年春、秋には川浚いをしたので、水は綺麗で飲用並びに灌漑用に用いられ、夏になると子どもたちが泳いだものである。
用水は一日も渇くことなく水ぬるむ春ともなれば、ネコヤナギの芽が銀色にふくらみ、初夏にはホタルが川面に飛び交い、秋には野鳥のさえづり、冬には笹つららができ、四季折々の風情は人の心を癒し平和な流れであった。
川のふちは土手で、そこにはオオバコ、シバクサ、ドクダミ、ヘビイチゴなどいろいろな野草が生えていた。また、水の中には、メダカ、フナ、エビ、ドジョウなどこれもいろいろな魚がおよいでいた。

「都会」と「用水という癒し空間」の融合は、新しい時代の潮流になってくると思います。

現代に生きる我々であっても水を慕う心は昔から変わっていないはずです。

参考
・『夏休み特別教室「田無の昔を知ろう」その2(水と暮らし)』田無市教育委員会
・『田無用水』保谷象一郎 著

 

田無用水を再生すると得られる3つの良い効果~その1

こんにちは。

東京都西東京市に住んでいる私は、西東京市に小川があってほしいな~と常々考えています。

例えば、「西東京市に小川を増やすなら、田無用水の再生」が良いとも考えたりします。

今日は、田無用水の再生という思いを込めて、田無用水を再生すると得られる3つの良いことをご紹介したいと思います。

田無用水って?

まず玉川上水から説明しないといけません。玉川上水は、江戸時代前期、江戸に飲み水を供給するために、多摩川の羽村から四谷大木戸まで地面を掘って作った水路で、玉川兄弟によって1654年に完成したと言われています。

その玉川上水の水を、小平市の喜平橋の辺りから分水して田無村を通り、石神井川へつながるように掘られたのが田無用水です田無用水が開削された時期は、最近の研究によると1700年(元禄13年)±2年と推定されているようです。この水は当時の田無村の人々の生活用水、農業用水として大切に使われてきました。

良いことその1〜水の大切さを知ることができる

江戸時代初期に青梅街道(当時は成木街道)ができる前までは田無村はありませんでした。理由は水が得にくい場所だったからです。田無村を含むこの地域一帯は、地下水位が低く、井戸を掘ってもなかなか水が湧かなかったようです。当時の井戸掘り技術では深い井戸を掘ることもできなかったのです。なので湧水や川の近くではないこの地域は、昔から人が住みつかない場所だったのです。

江戸幕府が開かれると、江戸城修理に伴い漆喰の材料である石灰を運ぶために成木街道が開かれます。そして、石灰運搬の継送り(荷物を宿場から宿場までリレー方式で受け継いで送ること)のため、近くの谷戸地域の住人が強制的に街道沿いに移住させられ、田無宿(田無村)ができたそうです。

もともと水が得にく場所で生活することになるので、当然水に困る訳ですね。なので、谷戸地域から数キロ歩いて水を汲み運んでいたのです。これは大変な労働であったことでしょう。

その後、玉川上水ができ、田無用水が分水されると、田無村の住人は谷戸地域から水を運ぶ苦労から解放されたのです。生活を大きく変えた革命的なことだったと思います。

一方、現在は水道の蛇口をひねれば簡単に水が得られます。だから水があってあたりまえ。水のありがたさを感じることなんて少ないと思います。

でも本当は、水って私たちの生活に欠かせない大切なものなんだということを、田無用水を巡る歴史が教えてくれるのです。

では、現在の田無用水はどうなっているのでしょう?

玉川上水から1日千トンが分水口から田無用水に流されていますが、流水があるところは分水口に近いところだけで、とうてい先の方までは水がきません。

圧倒的に流水量が少ないのです。

また、水路の多くに蓋がされていて、その上が歩道になっている箇所もあります。

その歩道は「やすらぎのこみち」や「ふれあいのこみち」と呼ばれていますが、「田無用水がむかし流れていました」ということを知っている人はどれほどいるのでしょうか?。

約270年間使用された貴重な文化遺産であることをもっと知ってもらうことで、多くの人に「水の大切さ」を学んでもらうきっかけになるでしょう。そしてそのアピールとして一番よいのは、田無用水を再生し、市民に親しんでもらうことではないでしょうか?

では、続きは次回。

参考
・『田無の昔を知ろう』田無市教育委員会
・『夏休み特別教室「田無の昔を知ろう」その2(水と暮らし)』田無市教育委員会
・『田無用水』保谷象一郎 著

石神井川の水源を取り囲むようにできた遺跡とは?

こんばんは。

先日、東京都小平市にある鈴木遺跡資料館にいってきました。

この鈴木遺跡は、1974年に、鈴木小学校が作られるときに発見され、発掘調査の結果、石神井川の水源を取り囲むように広がる旧石器時代の大規模な遺跡だったということです。

学芸員の方曰く、当時は石器など道具を作る職人などが集い、賑わった場所だった考えているそうです。

しかし、縄文時代にはいると、水源は鈴木遺跡があった場所から、東に約1kmもずれてしまったようです。

なのでこの時期には、人が住む場所ではなくなって、狩りや木の実の採集の場所へと変わったと考えられています。

ではなぜ水源がずれてしまったのでしょうか?学芸員さんも、そこまでは分かっていないということでしたが、何か地下水脈の状況が、地震とかなんかの影響で変わってしまったんでしょうねと。

現代でも湧き水が枯れてしまう現象はよくあるようです。

記憶に新しいのは、2016年の熊本地震で、塩井社水源(しおいしゃすいげん)という南阿蘇にある湧水池が枯れてしまったそうです。

また、同地震で熊本市の水前寺公園の湧水池も水位が激減したのですが、約1ヶ月の間に水位が戻った例もあります。

このように地震と湧水が関連している例はありますので、縄文時代に入ってから、石神井川の水源を変える地震があったのかもねというのはあながち外れていないのかもしれません。

現代のように、人為的原因として、地下水を使いすぎたとか、地下の工事をして水脈を切断したとかはこの時代は考えにくいでしょうからね。

水源が移動したにせよ、湧水からは小川が流れていたことでしょう。

 

当時のイメージがこちらのサイトにありましたのでご興味のある方はご覧ください。とてもいい感じです^ ^

 

多摩川の水が途中まで流れている、田無用水

こんばんは。

車の運転をしている時は、カーナービの地図に映る川・水路を気にしてついつい、どんな景色なのかをチェックしてしまいます。

とは言え、運転中なのでチラ見しかできませんが。

そんなチラ見調査によって、以前から気になっていた場所がありました。

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素掘りの水路です。

よくよく調べたら、田無用水であることが分かりました。(小平市ホームページ用水路水系

田無用水は、玉川上水の分水です。とは言へ実際は、玉川上水の分水である新堀用水から小平市の関東管区警察学校の南あたりで分水されています。

これまで田無用水といえば、田無駅北側の青梅街道沿いにある遊歩道「ふれあいのこみち」「やすらぎのこみち」にあるように、暗渠化されて、水は流れていないと思い込んでいました。

なので田無用水に水が流れているということにとっても興奮しました!

しかも、田無用水の水ですが、多摩川の羽村取水堰から取水した多摩川の水が流れているのです。

玉川上水の水は、小平監視所から下流において、多摩川上流水再生センター(昭島市に所在する下水処理場)で処理された下水処理水が放流されていることを考えると、なんだか貴重な気がしてきます。

 

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この田無用水の少し上流では、一部開渠となっています。

三面コンクリートになっていて味気ないのですが、トクサなどの水草の鉢植えを置いて、味気なさをカバーしています。

近所の方のお話によると、以前は蓋がされて道路になっていたそうですが、また、蓋を開けて水路が見えるようになったとのことです。

「蓋があった方が道路が広くてよかった。」

「魚が居るな~と思っていると、近所の小学生がごっそり獲っていってしまう。」

「魚獲りの際に、網ですくった底泥を道路に撒いたまま帰って困る。」

など、近隣住民のみなさんの意見はさまざまですが、こういう水辺が増えると以下のようなメリットが得られます。

  • 人にうるおいややすらぎを与える。
  • 生き物のすみかができることで生物多様性が増す。
  • 玉川上水の分水という歴史的価値を次代へ受け継ぐことができる。
  • 夏場に、周辺の気温上昇を抑えられる。

今回の発見で多摩川の水が流れる田無用水の存在をもっと知って欲しいなと思いました。

小平市には用水が多く保全されていますが、西東京市の場合は残念ながら多くが暗渠化されています。

「ふれあいのこみち」「やすらぎのこみち」に用水があったことを忘れてはいけません。

再び用水の水を田んぼに利用したいとなれば水をそこまで流そうとならないのでしょうか?

あそべる小川の可能性を強く感じますね^ ^

 

 

 

見沼たんぼと関わりの深い芝川

こんばんは。

先日は、子どもが春休みだったので埼玉にある実家に帰省しました。

そしてやっぱりこの時期はお花見ですね^^

近所のさいたま市北区にある「市民の森」でお花見をしてきました。

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ほぼ満開。桜の下で食べるお弁当は格別ですね。

 

さて、市民の森のすぐそばには、荒川水系荒川の支流である芝川が流れています。

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黄色い菜の花が土手沿いに咲いており、散歩を楽しむ方が気持ちよさそうです。

江戸時代の芝川


芝川は、見沼たんぼの開発と深く関わっています。

芝川の中流付近は、自然の遊水地「見沼(みぬま)」として、周りの水田や畑をうるおしていましたが、水深が浅かったために、日照りが続くと、水が干上がることが多かったようです。

そこで、1629年に、伊奈忠治(いなただはる)の指揮のもと、長さ8丁(870メートル)の堤(八丁堤(はっちょうてい))で見沼をしめきり、灌漑用水池である「見沼溜井(みぬまためい)」をつくりました。

八丁堤より下流の地域で は,新田開発は進みましたが、耕地の拡大に伴い、溜井の水だけでは不足することがあったようです。

その後、徳川吉宗 の命を受けた 井沢弥惣兵衛 (いざわやそべえ)が、新たに利根川から用水を引き、見沼溜井は干拓して新田として開発されました。

用水は取水口の利根川から見沼まで全長60kmで、1728年につくられ ました。

見沼の代用の用水なので、見沼代用水(みぬまだいようすい)と呼ばれ、東縁(ひがしべり)と西縁(にしべり)があります。

水田で使用された水は、排水路として芝川へ排水されました。

ちなみに、用水と排水を分離する方法を「紀州流」と呼ぶそうです。

 

見沼たんぼ開発前の芝川


気になるのは見沼溜井ができる前の見沼・芝川のようすです。

自然の遊水地として見沼があり、そこへ流れ込む芝川は、きっときれいな小川だったのではないかと想像しています。

芝川の流路は、大宮台地の中にある「芝川低地」と呼ばれる低地にあります。

おそらく台地と低地の境目から湧きでる湧水があって、その湧水を集め芝川となり、見沼の水源となっていたのではないかと思います。(芝川の水源については機会があればまた調べてみたいと思います。)

現在の芝川は、生活排水や農業排水が流れ込む川で、「きれいな小川」とは、まだ呼べるものではありませんが、あそべる小川になって欲しいと願います。

小川の動画


そんな芝川のあめんぼ目線カメラ映像はこちらです。

設定で「画質=1080p」を選ぶと最高画質でご覧いただけます。

参考文献:
1: 芝川・新芝川清流ルネッサンス(リーフレット)

2: 第4回世界水フォーラムにご出席された皇太子殿下の基調講演(宮内庁ホームページ)

3: 見沼たんぼのホームページ(見沼たんぼの地形)