東京に小川を!(その2)

こんばんは。

前回は、古老による白子川の昔の様子を少しご紹介させて頂きました。

前回書き足らなかった分も合わせて白子川の昔の様子を再度整理してみます。

  • 水草が良く茂っていた。
  • マコモやヨシがたくさん生えていた。
  • フナ、メダカ、ドジョウ、砂もぐり、タナゴ(ミヤコタナゴ含む)、エビもずいぶんいた。
  • ヤツメウナギ、ゲバチ、カワニナ、タニシ、イモリなんかもいた。
  • かいぼりでウナギやナマズも捕れた。

ほんとたくさんの生き物がいたことがうかがい知れます。

白子川がこんな小川に再生されたらどうでしょう?

ワクワクわくしてきます^^

私なら毎週末遊びに出かけたいです。

さて、再生に向けてはどういった手法で取り組むのが良いのでしょうか?

ボランティア活動したい人をたくさん集める。

それもきっと良いでしょう。

でも、やっぱり経済活動に結びつけて、再生活動ができたら一番良いでしょう。

例えば、以前自生していたマコモは、水質浄化作用があることが知られています。霞ヶ浦や琵琶湖などでマコモを使用した水質浄化事業が行われているそうです。

また、マコモの茎が肥大化してできるマコモダケは中華料理の高級食材として扱われるそうです。

葉はお茶にすると血液の浄化と細胞の活性化になるとか。

小川にマコモを植えて、水質浄化を図りつつ、マコモダケを収穫しておいしく頂いてしまう。

そして、マコモのまわりは水生生物が集まる場所になり、生物多様性が増す方向にもなる。

楽しみながら小川再生ができるんではないかと思ってきませんか?

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参考:
「白子川を知っていますか-水辺再生に向けて-」白子川汚濁対策協議会
菰野の真菰(http://www.komono.org/makomo/useful.html)

東京に小川を!(その1)

こんばんは。

かねてから気になっていた本を図書館で見つけることができました。

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「白子川を知っていますか-水辺再生に向けて-」白子川汚濁対策協議会によって平成6年に発行されています。

この本から、水循環のこと、水害との戦いの歴史、水質汚濁がひどかった苦難の時代からの脱出の歴史が学べます。

お勧めの1冊ですね。

特に私が興味を持ったのは、昔の白子川の様子です。

小川がきれいだったと言われる昭和30代のようすを知るには、古老のが語りはとっても貴重です。

その古老の語りの一部を紹介させてください。

『水はきれいで、流れはゆるやかでした。魚も、えらくいました。フナ、メダカ、ドジョウ、砂もぐり、タナゴ、エビもずいぶんいました。ドジョウはずいぶん捕りました。6月ごろ、夜真っ暗な中をカンテラをつけて、えさをつけた流し針で、ナマズやウナギも捕りました。マコモやヨシもずいぶん生えていました。(中略)子どもたちは、いぬかきをして泳いだり川遊びをよくしていました。』

※砂もぐり=カマツカのことと思われる
※カンテラ=携帯用の石油灯

『白子川の西武池袋線の鉄橋の南側ではよく魚とりをして遊んだものです。ここは水の中に草が茂っていたので、ビンドウを仕掛けるのに適していました。(中略)この中に糠(ぬか)の炒ったものや残りごはんを入れて、流されないようにヨシの茎などに紐をつないで夕方仕掛けておきます。翌朝行くと、ドジョウ、フナ、ミヤコタナゴなどが入っていました。』

水草が良く茂り、魚や二枚貝がたくさんいて、子どもが泳いで遊べるくらい水がきれいだったことが伺えます。

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現在の都市地域にこんな場所があるでしょうか?

ほとんど見かけないですよね。

こういう場所で、子どもが遊べば、子どもは、自然からたくさんのことを自ら学びます。川のどこが危ないとかも学びます。

そして、毎日残業でがんばっている大人は、日々のストレスをここで忘れることができます。また明日がんばろうという気持ちが持てるようになります。

さらに親子で一緒に遊ぶことで、親子の絆も深まります。

小川で遊べば、現代社会の問題が解決できてしまうのです。

都市地域には、今こそ、こういったあそべる小川が必要なのです。

最近は、これまでの垂直のコンクリート護岸から、緩やかな傾斜で水辺にに近づけるような場所も少しづつ目にするようになってきましたが、まだまだごくわずかです。

今以上にあそべる小川が増えていくように、活動していくことが求められます。

『東京に小川を!』

昔のような小川が、もし復活したら、遊びたくないですか?

谷戸ならでは小川の風景がある将軍沢

こんばんは。

道端に生える春の野草がよく目につくようになりました。春の訪れを感じる今日この頃です。

さて、先日訪れました、里山の小川をご紹介します。

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埼玉県比企郡嵐山町の将軍澤地区に流れる前川と呼ばれる小川です。都幾川の支流になります。

このあたりの地形は比企南丘陵と呼ばれており、「谷戸」とか「谷津」と呼ばれる丘陵地の谷あいの低地となっています。この谷戸に沿って、自然な雰囲気を残す小川が流れています。

 

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中流域ではコンクリが小川の両サイドを覆っていますが、小川沿いに耕作地が広がり、谷戸ならではの風景が見られます。

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小川の最上流部まで行こうと試みたのですが、深いススキの荒れ地に前進をはばまれ諦めました。

恐らくは耕作地だったと思うのですが今は使用されていないようです。こんな良い感じの小川が側にあるなら私が代わりに使用したいくらいです♪

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3月中旬ということもあり、茶色が目立つ景色ではありましたが、新緑が芽生えると小川の見え方ががらっと変わってくると思います。

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そんな小川のあめんぼ目線映像はこちらをご覧ください。

設定で「画質=1080p」を選ぶと最高画質でご覧いただけます。

里山の雑木林の利用は滑川町のミヤコタナゴを救う(その2)

こんばんは。

昨日のつづきです。

ミヤコタナゴがため池の自然環境に根付くようになるにはどうしたらよいでしょうか?

まず、産卵母貝であるマツカサガイなどの二枚貝が育ちやすい環境が保たれることが必要です。

沼の周辺の雑木林から落ち葉が沼に入り、底に溜まると最終的にヘドロになります。ヘドロがたまると二枚貝は窒息状態になり生きられません。なので落ち葉が沼に入らないようにすることが重要です。

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昔の人は里山の雑木林をよく管理していたとよく言われています。枝や落ち葉を拾って、燃料や堆肥にしていたのです。なので里山の雑木林はきれいだったそうです。そのおかげで、沼に枝や落ち葉が入りにくかったようです。

また、年に1回沼の水を抜いて沼干しをしていたため、ヘドロも定期的に排出され二枚貝が生息しやすい環境が保たれていたそうです。

しかし、現在は生活様式が変化してしまったので、枝や落ち葉を拾うこともなく、沼干しも行われなくなりました。ヘドロが溜まり、二枚貝にとっては生息しにくい環境になっているのです。

 

つまり、二枚貝が育ちやすい環境を作るには、昔のように沼を管理することがとっても重要なんですね。人の経済活動に結びついて雑木林の枝や落ち葉が利用されることが今とっても求められます。

対策が分かっていても簡単には上手くいかないんですね。そういった管理をしてくれる人が集まらないのが現状の問題のようです。

とは言え、里山の雑木林の上手な利用で経済活動にうまく結びき、結果的にミヤコタナゴが自然環境に根付くという将来は必ず来ると思います。

滑川町が本当の意味でミヤコタナゴの住む町になるように応援したいと思います。

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里山の雑木林の利用は滑川町のミヤコタナゴを救う(その1)

こんばんは。

日曜日は久しぶりに小川調査に出かけました。

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まず訪れたのは、埼玉県比企郡滑川町(ひきぐんなめがわまち)にある「滑川町エコミュージアムセンター」です。

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ここでは、国指定天然記念物ミヤコタナゴ(日本固有の淡水魚)を見ることができます。

関東地方に生息するミヤコタナゴは以前はどこにでも見られた魚だったのですが1960年ごろを境に急激に姿を消し、絶滅危惧種に指定されています。現在は千葉や栃木でわずかに生息するのみです。

埼玉県でも絶滅したと考えられていたのですが、1985年に滑川町のため池で偶然発見されて、さいたま水族館で人工繁殖が行われます。その後、1992年に水族館から譲り受けられてエコミュージアムセンターで飼育されています。

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2002年には町内のため池に稚魚200匹を試験放流したそうです。

同施設の担当の方にその後の経過について伺いました。

何回か生息の調査をしたそうですが、うまく自然環境に根付いていないかもしれないとのことでした。

自然を回復するということは簡単でないということを改めて感じさせられます。

では、自然環境に根付くようになるにはどうしたらよいでしょうか?

つづきは、次回のコラムに書きますね。

武蔵野台地に人が住み発展した理由

こんばんは。

タイトルにある武蔵野台地とは、関東平野の荒川と多摩川の間に挟まれた台地のことを言います。

今でこそ、住みたい街No.1の吉祥寺をはじめたくさんの人が住む場所ですが、江戸時代までは見渡す限りの草原が続き、水が乏しい、人がほとんど住んでいない場所でした。

人が住んでいた場所は、丘陵のふもとや川筋・谷筋などの水が利用しやすい場所でした。

人間が生きていくためには水が欠かせませんからね。

ではなぜ武蔵野台地の水が得にくい場所にも人が住み始められたのでしょうか?

その答えは、玉川上水とその分水のおかげだったのです。

順番に説明していきますね。

では、そもそもなぜ、玉川上水がつくられたのでしょうか?

徳川幕府が江戸に開かれると、江戸の町にたくさんの人が住むようになりました。そこに住む町の人達のために小石川上水や神田上水をつくり、飲み水が供給されました。

しかし、江戸の人口が増えるにつれて水が不足してきました。幕府は1653年に玉川兄弟に命じて玉川上水を作る計画を始めました。多摩川の水を江戸に引くようにしたのです。そして苦労の末、1654年に完成し、江戸の人々の飲み水の不足を補うことができたのです。

ここで、玉川上水のすばらしいポイントの一つとして、水路のコース取りがあげられます。武蔵野台地の高い場所(尾根)を狙って水路を掘っていったのです。これにより、玉川上水の北側にも南側にも分水を引くことができたのです。分水によって新田開発が進み、人が住む町になっていきました。

このコース取りが尾根沿いでなかったら、分水が引ける地域がもっと少なかったことでしょう。

とてもよく考えられていたのですね。

ところで、私が住む田無も水に乏しい場所だったそうですが、1696年に田無用水が玉川上水から分水されると周辺の人や田畑を潤したということです。

田無用水ができるまでは、湧水のある谷戸まで水を汲みに行く生活を余儀なくされていたということです。

今では蛇口から水が出るのが当たり前の世の中なので、水道水のありがたみをなかなか感じることは少ないですね。でも、人は水が近くにあるから生きていけるということを忘れてはなりません。

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現在、田無用水は蓋がされて、「やすらぎのこみち」「ふれあいのこみち」という遊歩道に役割を変えています。

長い間、田無の地の生活を支えてきた田無用水が、今度は地域の人々の憩いの小川として新たに役割が変わることを願っています。

参考文献:「玉川上水と分水」(小坂 克信氏)