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田無用水の水で田無に再び田んぼを!

先日は、娘の七五三があり田無神社へ行ってきた。

IMG_06299月の時点ではまだ工事中であった池は、

IMG_0909ほぼ完成しつつあり、龍神池と名付けられていた。

水神宮として水神様をお祀りするとともに、田無用水の風景よみがえらせるために作られたということだ。

田無用水の再生を願う筆者としては、この池の誕生はとても喜ばしい出来事である。

ところで、この池で特筆すべきことは、池の土メダカだ。

導入された池の土は、近隣農家の田んぼの土が使われているそうだ。土の中残っているかもしれない絶滅してしまった水草の種子が発芽するのを期待しているという。三鷹の井の頭池のかいぼりでは、絶滅したイノガシラフラスコモの埋蔵種子が発芽したという例があるので、田無用水が流れていた当時を偲ぶ水草が発芽する可能性は十分あるかもしれない。今後の動向が楽しみである。

また、メダカは、杉並区の須田孫七さん宅で長いこと飼育されてきたミナミメダカが導入されているということだ。2007年に実施されたDNA調査では、東日本に生息した純血種のDNAを持つ貴重なメダカと判定され話題を読んだメダカだ。すぎなみ学倶楽部というサイトでも詳しく紹介されている。

そんな貴重なメダカが龍神池にやってきたのだから、田無の小川である田無用水のことが今後益々注目されていくのではと思う。

ちなみにだが、池からメダカを持ち出さないことはもちろん、他から持ってきたメダカや他の生き物を池へ放さないことにも、十分注意されたい。ぜひ温かく見守ろう!

一方、七五三の祈祷の際に、子どもに稲穂を渡されたのだが、イミテーションの稲穂であったのが気になった。

ここは是非とも、田無で田んぼをつくり、そこで採れた稲穂を使って欲しいと思った。

田無には田んぼが無いとよく言われるが、明治から昭和の初めにかけて、田無用水の水を利用して、石神井川沿いに田んぼが作られていたのだ。もしかしたら、田無の田んぼで獲れた稲穂が、田無神社に初穂としてお供えされていたかもしれないだろう。

そう考えると、今は田無から消えてしまった稲作文化復活させ、田無神社の祈祷の際に、その稲穂を使うことはとても意味があるのではないだろうか。

稲作をやっていた当時のように、田無用水再生し、その水を利用して田んぼを作る。

夢みたいな話に聞こえるが、当時の人達に出来たことが、今の私達にできないはずがない。

子どもの健やかな成長を祈るとともに、そんな夢の実現も祈らせてもらった七五三であった。

田無用水の痕跡を辿る散歩のリポート

2017年6月11日、田無用水の痕跡を辿る散歩ツアーを開催し、3名の方にご参加いただきました。

この散歩ツアーは、江戸時代前期に田無村(現西東京市)に飲み水を供給するために玉川上水から分水してつくられた用水路「田無用水」の痕跡を探しながら、最上流まで歩いていく散歩です。

田無用水は、東京都西東京市、小平市を流れていた全長約5.6kmの用水路でしたが、現在は上流部約1kmまで水が流れていますが、それより下流は水は無く、暗渠(フタがされている)もしくは溝が埋まり、痕跡さえ消えてしまったところもあります。

田無用水はなぜつくられたのか?

これには田無村が誕生した歴史的背景と田無村が位置する地理的背景を理解することが必要になってきます。

こうした歴史的・地理的背景の話をしながら、かつての流路を予想し、歩いていきました。

見どころダイジェスト

  1. 田無に田んぼ?田無用水の水を使って石神井川沿いに田んぼがありました。昭和初期まで稲作が行われてました。
    田無用水1
  2. かつて滝があった場所。青梅街道と所沢街道の分岐点付近には、2m程度の崖があり、滝の痕跡を窺わせます。
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  3. 田無神社の境内を横切る。田無用水の文字が見られる看板的なものは、ここにしかありません。
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  4. 田無用水と深い関係のある田無村名主の家    下田家(地図中央)。下田半兵衛さんが田無用水を作るのに尽力されました。田無用水_大正初期_水車2
  5. ここから田柄用水分岐。コンクリのフタが続いていますね。水車もここにあったようです。
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  6. 雨乞いの儀式in橋場。干ばつになると御嶽山から竹筒いっぱいの水を運び、橋場の田無用水で祈祷して雨乞いの神事が行われました。
  7. 用水の立体交差。ローマの水道橋(?)を彷彿させる石樋です。下を流れるのが田無用水で上を流れるのが鈴木用水。「昭和五年十月成」の文字が刻まれてます。田無用水2
  8. 流末が日々変化、生きている田無用水 2ヶ月前は、流末が200mも上流だったんですよ。穴に吸い込まれ地下へ浸み込んでいました。この地下水は何処からまた湧き出すのでしょうか?
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  9. 昔の面影を残す小川の風景。この景色を参加者に見て頂けて良かったです。私のオススメな場所です。
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  10. 田無用水の起点付近。明治初期以降は、この付近で新堀用水から田無用水と関野用水に分岐していたようですが、勝手に侵入できなそうなので、ここまでとしました。
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参加者の感想

感想1 感想2 感想3

散歩のねらい

田無用水は約270年間、田無村の生活を支えてきた貴重な存在であるにも関わらず、西東京市では現在、わずかな痕跡がひっそりと残っているだけです。

歴史的価値がすごくあるのに、市民はあまり関心が無いようです。市民がもっと関心を持った方が良いのでは?なんなら田無用水を復活できないのか?田無用水を知れば知るほどそんな思いが強くなりました。とにかく西東京市民に田無用水の事をもっと知ってもらいたいなと思いました。

そんな思いでこの散歩ツアーを開催しようと思いました。

そしてなにより思うのが、小平市の上流部で水の流れが見られるように、田無用水は生きているということです。2か月前と比べ、流れの先端が200mも下流に伸びていたのです。植物に例えるなら、葉や茎は失ったが根っこの部分で新たな新芽を出そうと虎視眈々としているように見えました。

だから、いつか出てくる新芽を迎えられるように少なくとも流路を整えてあげることが必要だと思うのです。

だけど西東京市のほとんどの流路は暗渠か溝が埋まった状態です。

田無村に再び清流(小川)が流れたらどんな感じでしょう?

清流に魅せられて人も生き物も集まるのだと思います。

そんな未来はいかがでしょうか?

参考
保谷章象一郎著 田無用水

ネガティブな懸念を越えて

先日、小平市の用水について古老の語りをまとめた資料を読んだ。
その中に興味深い話が書かれていたので紹介したいと思う。

小平市に古くから住んでいる方の話だ。
自宅は、江戸時代の新田開発によって、街道沿いに作られた短冊状の区割りを持つ家。

各区割りの敷地内には、玉川上水の分水が流れ、農地と家と屋敷林がある。武蔵野を代表する農家の形だ。

街道沿いには欅(ケヤキ)が植えられ、街道は欅のトンネルだったという。

その欅だが、近隣に住宅が増えるに従って、住民からの苦情が来るようになったそうだ。
「落ち葉が飛んでくるので掃除が大変だ」
「枝が折れて落ちてきそうで危ない」
こういう苦情を言われたり、言われるかもしれないということで立派に育った欅を切ってしまうお家もあるそうだ。

どうやらこういった理由から自然が減っていくこともあるようだ。
危険な枝があるならその枝を切ることは必要かと思うが、落ち葉についてはどうなんだろうかと思う。

苦情を言ってくる人は、後からこの地に住み始めた人であって、元々そこにあった欅の落ち葉に対して苦情を言うのはちょっと違う気がする。
こういうクレーマーがいるのは、本当に残念だ。

元々ある自然を大事にし、落ち葉についても配慮した解決策は出せないのだろうかと切に思う。

例えば、焼き芋イベントを開催し、近隣の人を集めても良いだろう。みんなで落ち葉を集め、焚き火をして焼き芋を参加者全員で分け合ったら一石二鳥だ。その時その欅の事や昔話が聴ければ、新しい住民が町のことを知る良い機会になる。

「焚き火なんてしたら、洗濯物が臭くなる」とか新たに懸念を抱く人がきっといるだろう。でも重要なのは、元いた住民と新たに来た住民とのコミュニケーションだと思う。
きっと顔見知りになれば、少しの事は許せるようになるはずだ。

ところで私は西東京市の小川として田無用水が復活して欲しいと願っている。小平市では、分水口から約1km程は水が流れているがその先は水がない。西東京市内については暗渠もしくは埋もれている。
もし昔のように復元しようと提案するとまず先に挙がる懸念が「蚊が増えるからやめてくれ」だ。

確かにそういう問題はあるかもしれないが、清らかな小川が街に潤いを与え、かつ蚊による不快な思いが少ない解決策をみんなで考えれば良いだけの話である。落ち葉が飛んで来るから木を切れとか、蚊が増えるから水を流すなという短絡的な解決策を求めず、我々はもっとよい解決策を見出せるはずである。

参照
『用水路 昔語り 第一集』 こだいら 水と緑の会