先日、娘の七五三の写真撮影をするために近所にあるスタジオアリス田無店に行ってきた。この田無店の隣には多摩六都科学館があるのだが、これらの敷地の間に幅2m程の細道があるのだ。
この細道、実は暗渠跡であり、以前は用水として水が流れていたのだ。ではこの水路がどこから繋がっているのか見てみよう。
この水路は、江戸時代に作られた玉川上水の分水である野中用水へ繋がっている。
小平市天神町1丁目12番に、大沼田用水(おおぬまたようすい)から分岐する水門が現在も健在だ。住宅が多いこの場所に、心地よいせせらぎの音が聴こえてくる小川の景観がなんと良いことか。
ちなみに、写真の右側が大沼田用水で、左側が野中用水であるが、ご覧のように、野中用水の方には底泥が溜まっていて水が流れていない。泥さらいをすれば野中用水へも水が流れるようになるはずであるが、なぜこのままなのかは不明なままだ。野中用水へも水が流れるようにすれば、当然大沼田用水の水が減るのだが、その辺を心配する人達の陰謀があるのだろうか(笑)現代の水争いではない事を祈りたい‼︎
野中用水は、この水門を起点に青梅街道に沿って東流し、野中新田与右衛門組(のなかしんでんよえもんぐみ)[ざっくり現・小平市花小金井1~5丁目]、野中新田善左衛門組(のなかようすいぜんざえもんぐみ)[ざっくり現・小平市花小金井6~7丁目、天神町1丁目]、柳久保新田[ざっくり現・東久留米市南町]の各村の飲用水として使用されたという。(野中新田両組の範囲はかなり複雑に入り組んでいるためここでは詳細を省くことにする。)
最近では、新しい住宅地が並ぶ綺麗な街の印象がある花小金井であるが、歴史をひも解くと、野中新田与右衛門組というとても特徴的な名前の村であったというのがおもしろい。
野中新田の成り立ちについてのもう少し詳しい歴史については、小平市立図書館のHPを参照されたい。
では冒頭で述べた細道も、野中用水に繋がっていたので、野中用水と呼ばれていたのだろうか?
小坂克信氏の『近代化を支えた多摩川の水』の中で、「柳久保新田組合飲用水(以下、柳久保用水とする。現・東久留米市)」という記述をしていることから、現・東久留米市南町、つまり柳久保新田のエリア内の水路は、少なくとも“柳久保用水”であるという理解ができる。この辺りはまた改めて調査したいと思う。
ということで、冒頭の細道は柳久保用水と呼んでおくこととする。
水門へと繋がっていたスタジオアリス田無店の脇の細道(暗渠跡)に再び水が流れることは、はたしてあるのでしょうか?
野中新田や柳久保新田の村を支えた用水の歴史的価値をもう一度考えてみてはいかがでしょうか。