こんばんは。
タイトルにある武蔵野台地とは、関東平野の荒川と多摩川の間に挟まれた台地のことを言います。
今でこそ、住みたい街No.1の吉祥寺をはじめたくさんの人が住む場所ですが、江戸時代までは見渡す限りの草原が続き、水が乏しい、人がほとんど住んでいない場所でした。
人が住んでいた場所は、丘陵のふもとや川筋・谷筋などの水が利用しやすい場所でした。
人間が生きていくためには水が欠かせませんからね。
ではなぜ武蔵野台地の水が得にくい場所にも人が住み始められたのでしょうか?
その答えは、玉川上水とその分水のおかげだったのです。
順番に説明していきますね。
では、そもそもなぜ、玉川上水がつくられたのでしょうか?
徳川幕府が江戸に開かれると、江戸の町にたくさんの人が住むようになりました。そこに住む町の人達のために小石川上水や神田上水をつくり、飲み水が供給されました。
しかし、江戸の人口が増えるにつれて水が不足してきました。幕府は1653年に玉川兄弟に命じて玉川上水を作る計画を始めました。多摩川の水を江戸に引くようにしたのです。そして苦労の末、1654年に完成し、江戸の人々の飲み水の不足を補うことができたのです。
ここで、玉川上水のすばらしいポイントの一つとして、水路のコース取りがあげられます。武蔵野台地の高い場所(尾根)を狙って水路を掘っていったのです。これにより、玉川上水の北側にも南側にも分水を引くことができたのです。分水によって新田開発が進み、人が住む町になっていきました。
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幕府が1722年に新田開発の命令を出して以降、分水が増え、新田も増えたそうです。武蔵野台地には、82の新田が開発されたと言われています。 |
このコース取りが尾根沿いでなかったら、分水が引ける地域がもっと少なかったことでしょう。
とてもよく考えられていたのですね。
ところで、私が住む田無も水に乏しい場所だったそうですが、1696年に田無用水が玉川上水から分水されると周辺の人や田畑を潤したということです。
田無用水ができるまでは、湧水のある谷戸まで水を汲みに行く生活を余儀なくされていたということです。
今では蛇口から水が出るのが当たり前の世の中なので、水道水のありがたみをなかなか感じることは少ないですね。でも、人は水が近くにあるから生きていけるということを忘れてはなりません。
現在、田無用水は蓋がされて、「やすらぎのこみち」「ふれあいのこみち」という遊歩道に役割を変えています。
長い間、田無の地の生活を支えてきた田無用水が、今度は地域の人々の憩いの小川として新たに役割が変わることを願っています。
参考文献:「玉川上水と分水」(小坂 克信氏)