野火止用水開削の裏事情

野火止(のびどめ)用水をご存知であろうか?

玉川上水の最初の分水で、東京都立川市を起点として、新座市を経由し新河岸川に流れる約24kmの水路である。

小川の雰囲気がとてもいい感じである。

玉川上水開設の総奉行であった松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)がその上水完成の功績により将軍から受けた恩賞が、野火止用水であったそうだ。

不毛の地・野火止を潤すために、信綱が開削を指示し、別名「伊豆殿掘」とも呼ばれ、信綱は川越藩の領民から名君として崇められたそうだ。

そんな名君信綱に対して、、『上水記考』の著者は、彼が実施した次の点を指摘しているところがとても興味深い。

信綱は、玉川上水開削着工以前に、各自に金2両・ 米1俵を支給して55軒の農家を野火止に入植させているという点だ。

つまり、玉川上水完成の恩賞として、野火止用水の分水を受けることを想定し、野火止への入植を、玉川上水の開削に先行させていたという。

不毛の地・野火止で領民が水に困っているというアピールにも利用したのかもしれない。

また、家臣安松金右衛門に、最適な分水口位置の選定と堀筋をの設計を命じ、野火止への分水に事前に備えていたとも指摘している。

分水の許可が下りると、工事は直ちに着工され40日間で約24kmを掘り切ったのだ。

野火止用水を得てから6年後には野火止の村高は535石に変貌したという。

信綱は自らの川越藩の繁栄を目論見、恩賞としての野火止用水ありきで玉川上水を開削したと考察しているところが面白い。

入植のために金品を渡しているところが賄賂と捉えられてもおかしくないが、自藩の繁栄のための戦略と考えると、「知恵伊豆」と呼ばれた切れ者だったことが伺える。

こういった考え方は現代でも応用できる考え方なのかもしれない。

小川からまた1つ役に立つ話が見つけられた。

参考
『上水記考』 恩田政行

ネガティブな懸念を越えて

先日、小平市の用水について古老の語りをまとめた資料を読んだ。
その中に興味深い話が書かれていたので紹介したいと思う。

小平市に古くから住んでいる方の話だ。
自宅は、江戸時代の新田開発によって、街道沿いに作られた短冊状の区割りを持つ家。

各区割りの敷地内には、玉川上水の分水が流れ、農地と家と屋敷林がある。武蔵野を代表する農家の形だ。

街道沿いには欅(ケヤキ)が植えられ、街道は欅のトンネルだったという。

その欅だが、近隣に住宅が増えるに従って、住民からの苦情が来るようになったそうだ。
「落ち葉が飛んでくるので掃除が大変だ」
「枝が折れて落ちてきそうで危ない」
こういう苦情を言われたり、言われるかもしれないということで立派に育った欅を切ってしまうお家もあるそうだ。

どうやらこういった理由から自然が減っていくこともあるようだ。
危険な枝があるならその枝を切ることは必要かと思うが、落ち葉についてはどうなんだろうかと思う。

苦情を言ってくる人は、後からこの地に住み始めた人であって、元々そこにあった欅の落ち葉に対して苦情を言うのはちょっと違う気がする。
こういうクレーマーがいるのは、本当に残念だ。

元々ある自然を大事にし、落ち葉についても配慮した解決策は出せないのだろうかと切に思う。

例えば、焼き芋イベントを開催し、近隣の人を集めても良いだろう。みんなで落ち葉を集め、焚き火をして焼き芋を参加者全員で分け合ったら一石二鳥だ。その時その欅の事や昔話が聴ければ、新しい住民が町のことを知る良い機会になる。

「焚き火なんてしたら、洗濯物が臭くなる」とか新たに懸念を抱く人がきっといるだろう。でも重要なのは、元いた住民と新たに来た住民とのコミュニケーションだと思う。
きっと顔見知りになれば、少しの事は許せるようになるはずだ。

ところで私は西東京市の小川として田無用水が復活して欲しいと願っている。小平市では、分水口から約1km程は水が流れているがその先は水がない。西東京市内については暗渠もしくは埋もれている。
もし昔のように復元しようと提案するとまず先に挙がる懸念が「蚊が増えるからやめてくれ」だ。

確かにそういう問題はあるかもしれないが、清らかな小川が街に潤いを与え、かつ蚊による不快な思いが少ない解決策をみんなで考えれば良いだけの話である。落ち葉が飛んで来るから木を切れとか、蚊が増えるから水を流すなという短絡的な解決策を求めず、我々はもっとよい解決策を見出せるはずである。

参照
『用水路 昔語り 第一集』 こだいら 水と緑の会