田無用水表紙

田無の小川~田無に残る水路の痕跡


こんばんは。

私は田無(旧田無市のこと。現在は西東京市となっています。)に移り住んで8年くらいになりますが、かつてこんなに水路があったなんて全く想像もしておりませんでした。調べる程、田無に水路がたくさんあったことがわかってきました。

今回は概略を紹介したいと思います。

田無に敷かれた水路

田無用水

玉川上水から分水して田無村への生活用水として敷かれました。開削時期は、はっきりしていませんが、1700(元禄13)年、±2年に開削されたと推定されているようです。開削されたときは玉川上水の喜平橋の下手から分水していましたが、1870(明治3)年に、玉川上水における通船事業や東京市中の水量確保のため、玉川上水の分水口が統合されて、新堀(しんぼり)用水(新井筋とも呼ぶ)から分水するようになりました。そしてその後水争いが起きるのですが、詳しくは後の記事とします。田無用水については過去の記事を参照ください。

地図では水色で示しています。

田無新田用水

1770(明和7)年、田無新田の開発のために開削されました。できた当時は水料金が無かったそうな。

地図では薄紫で示しています。上流部分は省略していますが、詳細が判明したら追記したいと思います。関野用水から分水していたようです。

柳久保用水の残水利用

1849(嘉永2)年、柳久保用水の残水を田無村の摺鉢窪へ引き入れ畑を田んぼにしたとあります。摺鉢窪の場所が明確ではないのですがひばりヶ丘団地付近だという説があります。

また、1862(文久2)年、同じく柳久保用水の残水を田無村の藤谷窪へ引き入れ畑を田んぼにしたとあります。藤谷窪の場所は文華女子高等学校のあたりだと言われています。

芝久保用水

1871(明治4)年、芝久保2丁目で田無用水から分水し、石神井川に落ちる付近では田用水に利用されました。

地図では紺色で示しています。

田柄(たがら)用水

1871(明治4)年、田無村、上保谷村、関村、上石神井村、下石神井村、田中村、下土支田村、上練馬村、下練馬村の8ヵ村は、新たに田無用水から分水して村々に水が行きわたるようにすれば、水田が50町歩できて税収が見込めると所管の品川県に願い出ました。そしてできたのが田柄用水です。水路の長さは約17.5kmです。

地図では紫色で示しています。下流部分は省略していますが、詳細が判明したら追記したいと思います。

柳久保用水から田無用水へ接続

柳久保用水から田無用水へ接続する水路(黒色)があります。

1888(明治21)年に完成した新しめな水路です。実はこの水路ができた歴史的背景がとても興味深いものがあります。水争いが大きく関係しています。詳しくは次回の記事に譲ります。

まとめ

いかがでしょうか?田無用水ができてから明治の初めまでに、少しずつ用水網が拡大してきました。

田無には小川が無かったと思いがちなのすが、明治時代には用水という小川がたくさんありました。これらの用水であそぶことができたのかは定かではありませんが、良い風景だったに違いないでしょう。

しかし、今では全てが暗渠になっているか、埋め立てられて痕跡すら残っていません。。

個人的にはとても残念で仕方ありませんが、その時の社会の要望に従い創造され、そして破壊されたのでしょうね。

時代に翻弄された小川です。